2015年4月28日火曜日

瞑想するということ(2)

自宅近くの花壇にて


 自分と思っている自我は、本来存在しないものである。

 自我というものは、この世に生れ落ちた環境の観念を、自らのものとするところから始まる。

 生れ落ちた土地の気、周囲が使っている言語やニュアンス、特定の社会のルールーや観念をはじめ、あらゆるものを取り込んで自我は出来上がる。

 自我は、自分以外のもので出来上がっているのである。


 肉体も同様に、自分以外の食物と空気を取り込むことで成り立っている。

 だからこの世を去るとき、自我も肉体もまた、脱ぎ捨てられるのである。


 この自分以外のもので出来上がった自我と肉体を、自分のすべてと錯覚するところから迷走が生じる。

 自我はいずれ必ず消滅するので、自我が自分のすべてと感じていると、不安になるのは当然。

 死は、すべての終わりとの感覚を生むからだ。






 この世に生れ落ちた環境の観念を、自らのものとした存在。

 自我を作った存在。

 私たちに内在する、これを真我とも仏とも神とも称される。

 呼び名は違っていても、それぞれ同じ存在。

 これこそが普遍・不滅の存在。


 自我の存在は環境に依存するがゆえに、環境の変化に右往左往する。

 自我が発する喜怒哀楽が、自分のすべてのように錯覚するのだ。


 自我は、あたかも現実であるかのような幻想を生み出す。

 容姿を、金銭を、優劣をと、自我は不安であるからこそ、常に相対的な位置確認を求める。

 自我が生み出す幻想は、瞑想によって身体の動きを止めても、次から次へと現れては消え、消えては現れる。

 その幻想を「ただ、ながめる」と、次第に自分が見ている目の前の現実世界は、自分が作り出したものであることに気づくようになる。

 自分が作り出した現実世界ならば、自分で変えていくことができる。

 真理は、きわめて簡単なところにある。

 瞑想は、その入り口。



呼吸瞑想は次回5/9
ご興味を持たれた方はいおり鍼灸院までお問い合わせください。






 

2015年4月13日月曜日

4/11養生講座活動報告

4/11 養生講座~呼吸瞑想~


 スタッフの三谷です。

 4/11金澤先生の呼吸瞑想でした。今回も前回まで同様一時間ほど瞑想しました。





 自宅でひとりで瞑想するのも、落ち着いてできるので良いのですが、みんなで集まり、普段とはまた違った場の気にふれて瞑想すると、また違った感覚の良さがあります。






腹式での呼吸の指導をする金澤先生



 目を閉じて瞑想するのは眠ってしまうのであまりお勧めはできないのですが、僕は目を閉じると普段の何気ない会話のことで、自分自身の中で引っかかった部分などが鮮明になって出てきます。

 呼吸瞑想では、このように自分の中から湧き上がってくるものに気づくことで、日常で整理しきれなかった感情に、呼吸とともに気づくことができます。

 自分の感情とみなさんは、向き合えているでしょうか?

 月に1度の集いですが、自分と向き合う時間を作ってみてはいかがでしょうか?




次回の養生講座は4/25
永松先生による「気を意識した体の使い方」です。

金澤先生の呼吸瞑想は次回5/9です
ご興味を持たれた方はいおり鍼灸院までお問い合わせください。



一の会 養生講座








2015年4月11日土曜日

瞑想するということ(1)


雨天の晴れ間にて 於:近隣の桜並木にて





 自我の持つ性質のひとつに、分別・判断するということがあげられる。

 自分は正しい・間違っている、社会的評価の上下、経済的な多寡、認められる・認められない・・・など。

 どれだけ謙虚にしていても、自我は巧妙に主張する。


 この自我は、喜びも生むが苦悩も生む。つまりある時は喜び、ある時は苦悩し、絶えず喜びと苦悩の間を行き来するのである。

 ところが、これが自分と思っている自我は、本来存在しないものである。


 にもかかわらず、自我に執着するのは、自我そのものが本来的に、自我が自我の存在に対して不安を持っているからである。

 人はこの世を去る時、自我を脱ぎ捨てる。これが仏教でいう成仏ということである。

 Aの花は大好きだけど、Bの花はあまり好きでないと思うとき、そこに自我が現れてくるのである。


 たまたまある花を見て、思わずただ「きれいだな♪」と感じるとき、花と自分は自他を超えた絶対的境地にある。

 朝に日の出を見て、夕に落陽に接し、「ただ」美しいと感じるときなど、だれでもが普通に体験していることだ。

 ここに、自我を超えた真我を体験するとき、だれもが感動と安らぎを覚えるのである。

 
 自分がわけもなく、「ただ」感動し、安らぎ、うれしく楽しくその感覚と一体となっている時、「なんで感動しているのだろう?」 「なんで楽しいのだろう?」と考えることなど、出来ないはずである。

 思考の入り込む余地など、無い状態。

 目の前の現実と自分が、自他を超えた絶対的一になっているからだ。


 ところが、その瞬間の出来事に執着し、分別によって同じ体験を求め試みようとすると、絶対的一は消える。

 科学的手法による標準化・再現化などは、その好例である。


 過去に執着すると、「いま現在」目の前の新たな現実を、捉えることができないからだ。

 これが心を奪われているとも、見て見えず、ともいう状態である。

 日常の仕事においても、お金のため、生活のため、取引先・上司の要求のため、認められるためなどという思いの分別・判断が入り込むと、自他一体・絶対的境地を離れる。

 そして、喜怒哀楽の間を往来するようになるのである。

 瞑想は、思考や過去の体験によって作られた観念を鎮め自覚し、判別を超えた絶対的一の境地に達する道である。




※金澤によるの『呼吸瞑想』講座は4月11日5月9日・6月13日に、永松周二先生の『気を意識した体の使い方』講座は4月25日・5月23日・6月27日に開催していきますので、ご興味を持たれた方は、どうぞいおり鍼灸院までお問い合わせください。




 

2015年4月3日金曜日

3月28日 養生講座五禽戲

3月28日に行われた「一の会」養生講座の内容は五禽戲のうちの鳥戯でした。


鳥戯の動きは、鳥が羽ばたくように腕をゆっくりを呼吸に合わせて前後させます。


その時に腕だけを動かすのではなく、胸を開くようなイメージで、体幹から大きく


前後に動かします。胸が開いてくると呼吸が深くなってきます。


そして今度は腕を上下に羽ばたかすイメージで、呼吸に合わせながらゆっくりと


腕を上下に動かし、呼吸を丹田に納めていきます。


鳥になったような気持ちで大きくゆったりと呼吸と動きを行っていると


なんとも言えず満ち足りた気持ちになってきました。








五禽戲は五つの鳥獣の動きを真似て行う体操ですが、


永松先生から教えもらったこと全てに共通しているのはゆっくり深く呼吸すること、


体の力を抜くこと、そして丹田に気を下ろすことです。


単純なことですが、無意識レベルにまで落とし込むにはまだまだ時間がかかりそうです。


ただこれらを知っているのと知らないのでは、これから先の体のあり様は


大きく異なってくるように思います。


先を楽しみに、日々少しずつでも意識しながらゆっくりと習得していこうと思います。